拙者、ゴルフ侍と申す。
周りに下手なゴルファーが蔓延している情勢を踏まえ、ゴルフの指南をしておる。
しかし下手なゴルファーに限って、こだわりが強いのは何故なのだ?
実力が伴えば、拙者は何も言わん。
逆にそれを貫き通している信念に、尊敬の念を抱く。
しかし相手が下手な場合には、虫唾が走る。
100を切れない者が、何を一丁前なこだわりを持っているのだ。
普段であればその者を尊重して何も言うことはないが、
この場だから全力で言い切ってしまおうと思う。
これから先、拙者は「諸君」に向けて話す。
拙者の「マン振り」の如き、辛辣な言葉が並ぶ。
聞いていて、気分が悪くなるかもしれない。
悪いことは言わん。
知る勇気のない者は
・・・耳をふさげ。
・・・目をふさげ。
・・・この場からすぐに立ち去れ。
知る覚悟ができた者だけは、この先を読むことを許可する。
あなたの目指す場所はどこですか?
ある日、拙者にゴルフを教えて下さいという者がいた。
「どのレベルを目指してますか?」と問うと、
「100を切りたいです」と返ってきた。
返し刀で出た言葉は、こうだった。
「100を切りたいという目標では、100を永遠に切れないでしょう」
我ながら失礼な物言い。
高速のストレート過ぎて、その場でワンパンKOだ。
しかし相手はしっかりと受け止めて聞いてくれた。
言葉の真意
ゴルフには目標が必要だ。
それもとっておきの目標。
それが自分のアイデンティティー(存在意義)になるのだから。
①100切りを目標とする「情報」が集まってくる
「100を切りたい」となると、その瞬間からアンテナが立つ。
・テレビ
・雑誌
・インターネット
・周りのゴルファー
以前であれば見過ごしてきたような情報が、自然と目に入ってくる。
人間の脳とは不思議なもので、数多くの情報を「100切り」のフィルターにかけてくれ、ほぼ一瞬の間に「100切り」のコンテンツが手に入る。そしてドンピシャの内容ほど、強く心に残る。
問題は「100切り」の上位概念である「90切り」や「80切り」の情報が排除されてしまうことだ。
「ふ~ん、なるほどね」
確かに納得する内容であったとしても、3秒経てば忘れてしまう。
その情報が「100切り」でなければ、大して必要ではないと錯覚してしまう。
どんな金言であろうとも、「100切り」コンテンツの前では全てが後塵を拝すのである。
「100切り」万歳!
②100切りを目標とする「人」が集まってくる
ゴルファーは周りのゴルファーの質に左右される。
「類は友を呼ぶ」の理論である。
下手な者には下手な者が、上手い者には上手い者が集まる。
この環境は自分で選べるのだが、長くいると居心地が良くて抜け出せなくなる。
「肥溜め」にはまるか、自分を磨いて「宝石箱」を目指すか、どちらかを選べ。
③100切りの考えから脱却できなくなる
どんなに素晴らしいレッスンを受けたところで、「100切り」から逸脱した考えは無意識に排除される。
そのようなゴルファーは「100切り」の権化のような存在であり、誤って90を切ろうものなら、せっせと「100切り」コンテンツを再開して、当初目指していた「100レベル」へと舞い戻ってしまう。この目標を掲げた期間が長ければ長いほど、もう抜け出せない。
実に滑稽であろう。
この洗脳は自分が自分にかけたもの。
誰にも救いようがなくなった愚か者だ。
もともと「100切り」など眼中から外し、「72」を目標にすることを拙者は推奨する。
ゴルファーには「パープレー」を目指す義務があるのだ。
まとめ
拙者、ゴルフライターとして寄稿もしているが、「100切り」の人に向けて書いた記事は彼らには全く響かない。
よっぽど、今の「100前後のレベル」が心地良いのだと思う。
そういう人は一生、そうした情報にまみれ、そうしたレベルで終わるのだ。
本人達もそれが本望であるから、お互いに無視し合ったほうがいい。
それが平和に済ませるコツだ。
しかし本気で上達したいのに、そのレベルでくすぶっている少数派は見逃せない。
その人達に向けて、最後に伝えておきたい。
聞こえの良い言葉には要注意。
それは一切、諸君の成長にはならん。
耳触りの悪い言葉、それは「蜘蛛の糸」だ。
今を捨て去り、別次元へと這い上がろう。
(ゴルフ侍)